空の境界 矛盾螺旋

 常識的に作るならこうなるだろう、というぐらいに懐かし伝奇チャンバラ風味というかマッドハウスもどきというか。

 原作を読んだときは、ネタのしょぼさ、つまらなさにガッカリしたものだったが、アニメになってみたら意外とこのぐらいがバランスとれてる。理由としては荒耶というキャラが古くさいから、となるんだろう。

空の境界 伽藍の洞

 ナスキノ当たりネタ「死の線」の劇場映画バージョンはどんなもんかというと、こんな。サクサクと切断される幻視を幾度も重ねてみせるといったあたり「どうやって絵で説明するか」が最優先されている。

「死の線」についてはビジュアルノベル月姫が、最初に見たせいもあるんだろうけど、なんだかんだ印象強い。実写を加工した曇りガラス越し状のぼやかした背景画像にひび割れぽく線が引いてあるやつ。無機物に画像加工を加えてるのと、人間に透過光で線を引くのとでは、違和感の度合いがまるで違う気がするのだけども、一方で、ビジュアルノベルの背景画像という素材でなければ、あの感触は出せなかった、とは思う。「死の線」というビジュアルイメージは、視覚に訴えるものでありながら、動画や、あるいは細密に高解像度に鮮明に写し出された映像とは相性が悪い。アニメとなると、書き込まれた線と差別化して目立たせようとなると透過光やそっちの系譜で描写しちゃうよな、と。

 さておき、原作であれば「死が見える」というワンアクションであるような行為が、「線が見える」と「線で切断し分解される幻視が見える」の2アクションに分解され、なんつうかその、「死」じゃない。ビジュアルノベルが静的で「欠けた」メディアだから成り立ってたと強弁したくはないのだが、結果、どうにも式が「カラ」じゃなくなっちゃった。原作からして言うほど「カラ」じゃないじゃん、というツッコミもあるにはあるんだが、それにしても話を駆動してるはずの「死」について、animationであるがゆえに説得力を欠くというのは、出来すぎで逆に怪しい。死霊のとりついたゾンビとの対決で、「死んでるものだって殺してみせる」というよりか、単に切れ味のいい刃物でスパスパ切ってるだけになり、奈須きのこ原作って実はこんなにチャチいんだよ、とナスキノ幻想を暴き立てる効果ばかりが目立つ。

 けど、アニメ表現がナスキノの胡散臭さをまるで回収できないというのは、アニメ表現側の敗北じゃねえかなあ、と俺なんかは思うんだけども。

 そのへん置いとけば、まあ、フツー程度の話。

空の境界 痛覚残留

 すっげえつまらなかった。

 なんだろうなこの「アニメっぽいアクション・破壊シーンとなると、あっさりそっちに引きずられます」的な。アクションだけじゃなく描写全般に渡って。監督もあんま見たことない人だし、派手なシーンで引っ張れそうな原作部分だから若手にやらせてみたら無難に仕上げてしくじった、ということか。

 原作の段階で、わりとフツーのサスペンス&アクションの範疇に収まりそうな見た目ではあるが、言わずとも、そっちに引っ張られたらアウトなのが奈須きのこ原作である。

 たとえば、将棋の駒のデザインは将棋の競技性には影響しない。一般的にゲームのゲーム性なるものが目に見えない一方で、TVゲームではTVを使うので視覚の領分が随分と大きいように思われる。が、映像音声が全てである映画や映画に準じたジャンルとは、やはり映像の受け取り方が違う。探偵モノの推理パートが映像化すると面白くないのは判りきったことだが、「推理」の「小説」が、ゲーム的であるような小説と言われつつ実際のレベルでは「書かれてる文字が全て」という定義的な論に帰着していくのとは異なり、TVゲームで実際にゲームをやってるときの感覚は、どうしたって、画像や、画面上の文字が全て、とはならない。しばしば「プレイヤー」側に回収される、とされる。

 ギャルゲーの場合、しかしこの、文字や画面に回収されない部分はプレイヤーの支配する領域なのかといえば、それもまた同意を得られにくい。そこで「作家」「クリエイター」という支配領域が提案されるわけだが、実際のところ、これもまた怪しい概念で、「書かれたテキスト」を引き延ばすために文芸評論なりの「ゲームの外側の事情」を持ち込むことで成立させるわけだが、そうなってくれば「ゲームだから、ゲームとしての意味合いで、映像や文字が全てじゃないような領域がある」という話からは、もちろん外れる。

 もちろん、ゲームのそれについては、ようはゲームをやってる間の「限定された時間空間内でのみ適用される公共性・倫理観・道徳観・美観・等々」であって、そんな範囲限定概念がゲームの外に越境して持ち出されることでわけがわからなくなる。順序としてはそういう順序。そこに一般性や普遍性をつなげようとすれば、とたんに「ゲーム」じゃなくなる。

 ゲームについて語ることは、だからこそ不毛だと言える。けども、そのへん書き付けておかないと話が先に進まないのが、この「推理ものの小説でもなければ、結局のところアクションもののアニメでもない」「空の境界」だ。

何の役にもたたない善意、というのは確かにあって。

 たとえば、エロゲの、ビジュアルノベル作成エンジンとかで、立ち絵を自在に動かせるツールを開発してみました、とかそういうやつ。

 まあ、そんなのは、エロゲ自体について、文芸でもなければ芸術でもない、単なるオナ ニーの道具だと誰しもが了解してるから、それで済むんだけど(エロゲを批評するという行為も、似たような役にたたなさを演出してはいるのだが、批評自体の世の中への貢献度皆無な性質によって、上手いこと組み合わさってる面はある。つまり、目につく範囲から隔離しとくという意味で)

 まあ、そんなのはさておき。

 いましがた、神奈川県中小企業家同友会という団体の事務所に、被災地に物資を送る段ボール(とクラフトテープ)が足りないというので、ちょっと届けてきたんだけれども。

 エレベーターのドアーがあいたら、目の前に積み上がった段ボールの山がありまして。段ボールに整理用に書かれてる文字が、「女性用上着」とか「外套」とか、そんなんばっかで。

 まわってきたメールだと、確か「食料」「燃料」「水」「生活必需品」の「新品・新古品」だったよな? と思って、きいたら、「や、送られてくるのが、どうしてもこんなんばっかりで、送れなくて、どんどん積み上がっていくんですよ」と。

「困るんです」と、はっきり言ってました。

 困るだろうな、と思いました。

 個人的には、あんだけ「被災地に必要とされるもの」とか「送っても困るモノ」とか、喧伝してるのに、いまだに、こんだけ古着が送られてくるのか、と。

情報弱者」とか言いたくなるのを必死でこらえて、伝わるべき情報から切り離されて、こんだけの古着を送ってしまう仕組みは何なのか、想像してみました。

「寒そうな風景」とか「凍える被災者」とか、そんなのが感情的に直結してしまうんだろうな、と思いました。

 なんでかといえば、そういう映像をTVでいっぱい見てるからだろうな、と思いました。

 それ以外の映像が、ちっとも流れないからだろうな、と思いました。

 汚いトイレとか、下半身のかぶれた赤ちゃんとか、飢え死にした死 体とか、そういう映像を流したほうが、きちんと伝わるモノが伝わるんじゃないか、とか思いました。

 わりとこう、黒いモノがふつふつと沸く光景では、ありました。

たとえば、自分に、幼い娘がいたとして、

 警察にすら、いつどのタイミングで停電になるのか、ギリギリになるまで知らされない状況が、この先、1ヶ月も続くとするならば。

 交通事故や、その他のアクシデント、ささくれだった心理状況から生じる諸トラブルを恐れて、首都圏から離れるというのは、それが可能な人であるなら、適切な行動だと思う。

 昨晩、川崎の地元もそれなりに大きな片側2車線道路が停電だったので様子を見に行ったのだが、眺めていた限り、警官の交通整理のない交差点を通過する場合であっても、通過車両の速度は、時速40kmは出ていた。

 現状のところ、東京電力や政府が、この状況に何らかの改善案を提示できるようには見えない。

 社員に配送をやらせてる身として、停電になってしまったら、どれだけ渋滞していても幹線道路から離れず、交差点は慎重に通過するように、と指示を出してはいる。が、自家用車でパニクって突っ走ってくるバカから逃げられるようにしろ、と言ったところで、限度はある。

 あえて言うなら、幼い娘を心配する親として行動するのなら、ネットの若い連中に半端なちょっかい出してナンボのようなヤクザな業界から足を洗うべきじゃないのかね、とは思う。

『娘「ねえパパ、あの〈3.11〉と〈大復興〉の時、何してたの? 授業で体験談集めてて」貴方「大したことはしなかったよ:ただネットのヒマな若人相手にネット議論しかけて煽りをいれてただけで」娘「パパ…」』
(参考 http://twitter.com/SinjowKazma/status/48268841150722048

 まあ、そんなオヤジに「パパ…かっこいい」とゆってくれる娘に育って欲しいというのなら、他人が教育方針に口出しできる筋合いではないのだが。

空の境界 殺人考察(上)

 キャラデザの問題もあるのだろうが、なにより真綾の演技(表の式のほう)がギャルゲくさいことこの上ない。

空の境界」と「月姫」を対比した場合、ギャルゲーテイストが無闇に漂うのは「空の境界」のほうである(なにしろ、コクトーをめぐって超能力3ヒロインがそれぞれのシナリオを展開し、彼を奪い合う。コクトーはといえば、あっさりとギャルゲー主人公のごとき八方美人ぶりをみせる。両儀式はざっくり言えば三角関係の修羅場で包丁を振り回して他のヒロインを刻み殺すヤンデレであり、そのヤンデレぶりを綺麗に言い訳するために余計な設定がくっついてると言っても、あまり差し支えがない)。月姫は、式の「能力」をめぐる物語を、男の子サイドに移植することで成立している。

 この倒錯の現場に立ち会ったのが、つまり奈須きのこの文才ということになるのだろう。背景にあるのはおそらくは殺人というワードで、まぁ、つまり、、通常であればドラマがいい感じで盛り上がる、相克ポイントである殺人と恋愛の交錯について、実に抽象的な形でのみ殺人や恋愛というワードを取り扱うことが出来たがゆえに、恋愛と殺人を取り結ぶにあたって何らの障害も感じなかったというのが、真相なのだと思う。

 で。この「殺人という行為・事件に対する徹底した抽象的な捉え方」がどこで培われてるのかが、おそらくは問題である。

 眠いので後日に続く。

人の死のライトノベル的な量産体制について

 いったい、人の死のどうでもよさ、人の死を情感をもってたっぷり語ってみせるテンプレな嘆きについての胡散臭さ、等々を滔々と述べた作品の書き手が、その死のセンセーショナルな要素をもってテンプレ気味に語られることになろうとは、なんて嘆きについては、どうせいつものことではあるしと、おそらく死んだ当人も多少は予想しないではなかったろうが、まあ、誰かが言ってあげないといけないんじゃないかなと思うので、書きつけておく。

 さて、とっくに指摘されてるとおりメタルギアソリッドまんまですよなセカイを舞台の大冒険な本作はつまり「ゲーム小説」で、感覚操作のおかげで殺人についての実感が無いぜとゆーのはFPSでゲーム感覚で殺人してますよという話であり、自分のリアル身体を使ったリアル舞台な射的ゲームを遊んでるガキのメンタリティで語ってみせるとゆー代物だ。んで、ぼくは、ラノベとはゲーム体験を横目に眺めながら成立している小説ジャンルだと思っていて、虐殺器官はゲーム小説もしくはゲーム関連小説だからライトノベル括りですよ、となる。

 バーチャルリアリティなる代物とゲームとの違いは簡単で、ゲームであればバーチャルなモノにバーチャルなモノとしてそのまま価値が付与されてる。例えば仮想現実な技術でもって金塊などが再現されたとして、バーチャルリアリティの場合「現実の金塊と誤認」すると実際に価値が生じるわけだが、ゲームは「現実と別だと判っている」状態で、虚構の金塊に「ゲーム内における」価値が生じる。価値が先行して成立していて、その価値がゲームの外側に持ち出される(ギャンブルや、リアルマネートレードなど)というのが、「ゲーム」である。

 つまり、ゲームという巨大な虚構、巨大な物語の体系が出来上がった現状下、ゲームに隣接した形で小説が書かれた場合、ゲームにおいて出来上がった虚構の価値を持ち出すという順序でもって小説の中の虚構が語られるのが、ゲーム小説・ゲーム関連小説としてのラノベである。小説という虚構形態より先に虚構の価値が成立していて、それを誰もが虚構と知り前提として踏まえつつ、価値を共有し、それが小説内の虚構にそのまま持ち込まれている。人によってはメディアミックス的と言い換えるだろう。虐殺器官の中の虐殺というのは、なんぞ、そんな代物だ。最初から虚構としての虐殺であり、その、虚構の人の死に、人の死という価値がつけられている、そういう話である。