伊藤計劃『虐殺器官』

 今しがた文庫版を読み終わった後、解説の絶賛ぶりに冷めた。

 や。なんかこう、思うところがないわけではない。のだが、こいつら気持ち悪いなあ、というしかない解説および解説に取り上げられてるお褒めのコトバのほうが、ぼくの気持ちを萎えさせコトバを奪い沈黙させるという意味において、虐殺な言語であるなあ、というのが、正直な感想である。

 ……悪口を言って少し落ち着いたので、小説本体のほうの感想を。

 なるほど年寄りに受けるラノベとはこういうものか、というのが読んだ直後の感想。ぼくの思うラノベというのは、もう少し直接的かつコンパクトな代物で、つまり、本作でもいろんな映画やら何やらから借り受けてきた間接的イメージを上手いこと組み合わせ、はめ込んでるのだが、ラノベの場合、それを描写するのに、こういう形での「ぼく」は介在しない。ただイメージをそのまま現実としてサクッと提示してしまう。が、この小説は、「ラノベ的な世界を、<ぼくの語り>を通して語ってみせる」ことで、ラノベじゃないような形になってる。この「ぼく」の居所が面白い。出た当初、プロ軍人とは思えない退屈した大学生みたいな自己思弁語りが少し話題になったが、別にプロ軍人だからといって、ここに書かれたような厨房くさい思弁語りがまるきり頭をかすめないわけではないだろうし、今までは単に「それっぽさの描写をどこに置くか」というレベルでこういう形式がなかっただけだろうと思う。この小説で書かれてるのは戦闘中に思弁を戦わせる戦争ものアニメの影響と言ってしまえば簡単かもしれないが、しかし、元来退けられてきた、「まぁ頭の片隅のほんのちょこっとぐらいでは、こういう思考がかすめてるかもしれないよな」という部分をあえてクローズアップしてみせる手法だと思うと、「わたし」の同一性とは何か、とゆー主体の探しどころについての本文内の言及と合わさって、俄然、面白くなってくる。米軍シークレット部隊随一の腕利き暗殺者な主人公とゆーラノベ厨二病設定と「ぼく」との、おそろしく緊張感のあるいかがわしさが全編を強烈に支配し、ぼくにニヤリと笑いかけてくるのだ。

 一人称を上手いことラノベの特性と組み合わせた作品というと「涼宮ハルヒの憂鬱」を思いだすが、ハルヒのほうが文章としては出来はいい。いや十分に読みやすくていい日本語文章だと思うが。けども、これはハルヒに劣らず相当に捻くれていて、なるほどゼロ年代を代表するラノベに違いない。食わず嫌いは良くないなと反省いたしました。

キャラクターを蕩尽するという行為

 毎度言っているが僕にとって谷口悟朗とゆー人はリヴァイアスの谷口でもなければコードギアスの谷口でもなく、もちろんプラネテスの悟朗でもガンソードの悟朗でもなく、舞-HiME谷口悟朗である。「サンライズ初の萌えアニメ」というキャッチコピーを背負い「萌え」なるものを悟郎ちゃんらしく突き放して腑分けして出した結論が舞-HiMEに反映され、つまり、各ヒロインはご都合主義的に悲劇的な死を迎え、もしくは「最愛の人」を失って精神的死を迎え、かつ、ご都合主義的に死者が復活して終わる。
 よく「キャラクターを消費する」というが、作中でキャラクターの劇的状況下の死を提示することで「キャラクター自身の物語」を綺麗に裁断しパッケージング、消化しやすいサイズにキャラクターの人生を切り分けておき、さらに、よく判らない理由で奇跡が起きて復活することで「死」というイベントそのものがもたらすインパクトの大きさ、意味を無化してみせる。舞-HiME谷口悟朗が喝破してみせたのは、そこまで含めた「キャラクター自身の物語」のパッケージングと消費のスタイルこそが、つまり「萌え」である、というものだった。
 言われてしまえば実にそのとおりだが、それを受け入れるには時間がかかる。物語におけるキャラクターの死そのものについて、「泣いて感動するために」などと揶揄してみせつつも、「それが物語の消化に一番手切れがいいから」とは中々言いづらい。しかし実際にエロゲのブームが一貫して推し進めてきたのは<物語>を各キャラクターそれぞれ一人づつに分離解体しキャラクターの修飾部分としてパッケージングする、一連の工程だった。そのために最も効率よかったのが<死>によって「キャラクターの物語」を区切る手法である、というのがKanonを経てSenseOffで確認された形式だったわけで、その後の「萌え」を巡る状況というのは、その結果としてそれ自体何の意味もなく量産されるキャラクターの死と、その死からの何の脈絡も意味もない再生についての、永遠に正解にいたることのない意味づけと配置についての苦慮であった、と言っておけば概観してしまえる。ループする時間にしたところで「死と再生」についての破綻のない説明であることが第一義であったのだし、吸血鬼だろうとゾンビだろうと、死を最初から取り込んでいるという意味で同様である。それが「十七分割」のように最初に来るか、最後にゴールして死ぬかの違いでしかない。

フラクタル感想

 あの片手落ち感はなんだろう、と思い。

 人体改造への布石がまるきり欠けてるなあ、とか。ソラから落ちてきた少女がフィアナっぽく見えるシーンがあったので、余計に。

 アニメの歴史において、別にサイバーパンクとか言わんでも強化人間とか山ほどいるわけで。

 たとえば子供の頃、破裏拳ポリマー見てると、その前にキャシャーンを見ていた文脈もあって、ポリマーの人間としての身体そのものが変形しているものだと思い込んでいたわけです。
 そうすると、フレンダーにしてもポリマーにしても、アニメのメタモルフォーゼらしい流体めいた変形なんですけども、それがタツノコの劇画タッチの描線、筋肉の固さと、見事なまでに衝突して、生半可じゃない人体改造の背徳感、骨と肉の溶けて交じり合って固まってく感覚があった。
 しかもポリマーの場合、改造人間じゃなくてスーツを着てるだけですから、普通に着ているものに肉体を侵食されていくエロスと恐怖というのを、正義の味方の側がまきちらしていたわけです。まあ、子供ならではの誤読なんですけども。

 俺にとって、日本のアニメを見てるときに画面から湧き出てくる欲望の源泉というのは、そのへんにある気がするので。
 

創作物の価値とか

http://bit.ly/hasM51

 だいぶ酷いことになってる。

http://togetter.com/li/86232

この流れとか、ひでえよなあ。まじめに素朴に疑問に思っちゃったことについて語ってる流れだったのに(予想どおりではあるが)どんどん周囲にいなされていって、最後のほう、

>とりあえずまおゆうの世界では(人間世界では)食糧生産が足りていないのが前提です。

 異世界ファンタジィで「○○の世界ではそれが前提です」を使っちゃったら、もう、誰も何も言えなくなる。それゆえ、なんぞ皆さんががんばってらした、あらゆる学術的批判は成立しなくなる、とゆーことは、再三再四ゆってはいた。だからクソまじめに批判する側がそうした壁にぶちあたって何も言えなくなり、ひいては、くそ真面目な批判の根ざしてる理屈自体が陳腐なものと見なされてしまいがちになるだろう、とは思ってた。思ってたから、けっこう色々書いた。

 それにしても質が悪いのは、この「前提です」という言い分を使う前に、彼が、大概に長々と理屈めいたものを書き連ねてることである。ファンタジィ異世界において理屈の正当性、法則根拠というものがないことを最後の防衛ラインとして使いながら、その前に、さんざんに議論をこねくりまわしてみせていることである。

 目的を持たない発話とゆーのは、よくある。伝えたいことがないのに書くというのも、よくある。それが目的を伝達するための言葉を薄め使い物にならなくしていくことは、およそ仕方がないことだ、と諦めてしまうしか、ないのかもしれない。

 けど、せめて、周辺の人は、とりあえず君のやってることはクズである、と否定してあげるのが、本来の人としての善意というものじゃないだろうか。

キック・アス

 おいらのゼロ年代(とゆーか21世紀)スタートはセガサターンKanonの年越しプレイだった http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060223 わけですが。

 あれから10年経ちました。2010年もあと少し、おそらく、この10年間一区切りの最後に見た映画が、キック・アスということになります。

 日本産の戦争映画のウェットな駄目さ加減に絶望していた人が「硫黄島からの手紙」を見てしまって、なんで日本人が日本人の戦争映画を作れずにいるってのにアメリカンが日本人の戦争映画を作れちゃうんだよ、と泣きながら訴えつつ映画を褒めずにいられない感覚が、おいらにも少しわかる気がしました。

 なんで日本人のオタクがこれを作れないんだと言いたくなるぐらい、これは、俺の俺たちの俺たちオタク(かなりごく一部)の映画です。1960年代に世界の若者は同じ時代を共有していたんだよなどとビートルズを知らなかった紅衛兵をまるっと切り捨てた発言せずにいられない団塊世代のオヤジどもの傲慢さになけなしの理解を振り向けたくなるぐらいに、この映画を作った奴は、2chとかふたばとか、はてなダイアリーとかkagamiさんの好き好きお兄ちゃんとか、痛いニュース以下まとめサイトとか、アシュタサポテとかCLOSED LOOPとか死エロとか見てんだろ、とゆー痛々しくせせこましい同意を求めずにいられないほどスポットな共感ツボを揺さぶってきます。本当の意味での共感なんかじゃ全くないあたりが、ソレっぽいんだよ。ナデシコでありコスモクリーナーであり秋葉の歩行者天国であり、なんぞその他いろいろ。

 とりあえずえー。俺の俺の俺の社会福祉公社が、ほぼ完璧に実写化されて帰って参りました。体格にあったサイズの銃器しか使わないとゆー嫌らしく忌々しいアメリカナイズなリアリズムにソフィスティケートされてるのが不満ちゃー不満かもしれんが、しかしだからどうした? ああ、あっち方面はセカイ系の厨二決断主義とかフォーマット通りにゆーんだろうねえ。言えば?

 全くもって実に正確な距離感。同じコミックカフェでたむろってても主人公サイドはアメコミでガールフレンドが読んでるのは少女漫画(あのへんの少女漫画はつまり日本の少女漫画です)。あのズレ。ジャンク・カルチャーってのは文字通りジャンクでしかない。言いつくろいようのない、言いつくろう態度を嘲笑うしかない、言葉を際限なく引き延ばし続ける態度への、FUCKOFF。決断とかね、そんな真っ当な意志のあり方の問題なんぞじゃないんだよ。だって、ジャンクはジャンクだからさ。

非実在青少年を想う

 非実在青少年という言葉の響きに、僕がどれだけココロをときめかせたか、あなた方は知るまい

 それは、未来への扉だった

 それは、見失いかけていた、SFという概念を思い起こさせるに足る言霊だった

 それは、無限のフロンティアへと僕をいざなう、喜びと感動に満ちた叫び声だった

 いったい、ツツイだカンバヤシだホシだと、その空想と妄言を賛美された作家たちですら、非実在青少年という存在を見出しえたものが、いままでいただろうか?

 現実の児童より先に、実在しない青少年を保護しなければならない、そんな夢想が現前しようとしていたのである!

 セカイは、現実と幻想が逆転しようとしていた

 いってみればベルセルクでいう蝕が、鷹の降臨が、本当に、手に届くところまで来ていたのである

 なぜ、実現しなかったのか?

 漫画家ら既得権益の集団が、足を引っ張ったからだ

 非実在青少年の生殺与奪、すべてを牛耳る、クリエイターと称する連中が

 もう二度と、あのキセキはおきえまい

 あれから半年、あのキセキの残滓が再度提出されはしたが、似ても似つかない代物と化してしまった

 僕たちは、ほんとうに、あのとき反対してしまってよかったのだろうか

 いくら後悔したところで、時は戻らない